Monthly archives: 1月, 2020

ギターは宇宙

フルヤギターの古谷さんについて。彼のギターが好きなのはもちろんだが、どこかで見た彼の言葉がすごく印象的だったのを覚えている。Facebookだったかな…。

細かい表現は覚えてないけど、ギター製作家が修理をやるのはとても大事なことなんだ、と、そういうことが書かれていた。

ちょっとピンと来ない人も多いかもしれないけど、ギター製作家って名が出て来ると製作だけに専念して、修理業をあまりやらなくなるんだよね。修理業はそれはそれで素晴らしい職業なのだけど、ギター製作からすると軽んじられるというか、「食うための仕事」っていう感じがするんだろう。

しかし修理とは、自分とは違う哲学で作られたギターにたくさん出会い、それらを解体して再構築する作業であり、そこから学びとれるものは非常にたくさんある。古谷さんはその辺を大切にしてるのかなと思う。(聞いたわけじゃないよ)

それって演奏家にとってのレッスンと似ているのかもしれない。名が上がってくると、レッスンを辞める人は多い。「あの頃はまだレッスンをしてて…」という言葉もよく聞く。それはそれで構わない。

けど、そうでない価値観があってもいい。レッスンを続ける、というのも一つの美学である。

ここ数年でレッスンの内容も変わってきた。まず、曲を取り上げることが少なくなってきた。それよりも身体の動かし方や音の捉え方といった、基礎的な所にフォーカスするようになった。曲は各自で練習して、気になるところは聞いてねというスタンスである。

なぜか?基礎練は一人ではしんどいからである。一人では続かないことを一緒にやろう、そういう気持ちでやっている。壇上から教えるのではなく、伴走するようにしている。ギター人生はマラソンである。長い道のりだからこそ、大丈夫この道で間違ってないよ、僕は見てきたから知ってるんだ、と声をかけてあげる存在が大事なのだ。

そしてレッスンは、かつてギターに憧れていた時の感情を思い出させてくれる。ギターの世界は全てがキラキラしていて、いつかあんな風に自然の中で気持ちよさそうにギターを弾いてみたい、それだけで自分の人生は十分豊かだと強く憧れた。そんな憧れを、レッスン生は皆持っているはずだ。そしてそれはきっと叶うよと言いたい。数ある趣味の中からギターを選んだ君の判断は正しい。こんなにやりがいのあるものは、世の中そう多くないのだ。

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キャラ変待ったなし

本をよく読むと思われてるがそうでもない。キャラというのは不思議である。「なんかコイツ本読んでそう!」なキャラなのである。それで得をすることもあるが損することの方が多い。良いイメージというのは時として人を失望させるものである。不良がいいことすると「あいつは実はいいやつだ」となるのに納得がいかない私である。あー不良になりたい。

さて本である。どうやらケルト民話集に興味を示した人が結構いるようである。このブログの読者どうなってんの?それはさておき、ふと思い出したことがある。大学生の時、小説「親鸞」をバイト先に持ち込んでいた。それを見とがめた先輩が「これ読んでるの??」と怪訝な顔で聞いてきた。若干ドン引きしていた。20歳の大学生が親鸞を読んでることが相当意外だったようである。

なぜそれを思い出したかと言うと、その後数年してからその先輩にまた言われたからである。

「あの時さー…チャーリーさ…親鸞読んでたよね」

「そういうの読む人、本当にいるんだね」

余計なお世話である。

まあでも同じ時代小説でも宮本武蔵とか、坂本龍馬とか様々なヒーローがいる中でなぜ親鸞?というのはツッコミに値するのかもしれない。

そういえば我が母にも言われた記憶がある。確か「イエスの生涯」とかそういった類の本が僕の枕元に置いてあるのを見て、

「こういうのって…面白いの?」

と真顔で聞かれた。なぜこの母親から自分が産まれたのか不思議である。ちなみに母はサスペンスしか読まない。テレビ欄を見て、「あっ‼︎今日は湯けむり殺人事件の日だ‼︎楽しみだなナ」なんて物騒なことを言う人である。こえーよ!

しかしこういうのを僕が読んでてもハイハイって思われるだけだが、不良が読んでるとなんか硬派でカッコイイ‼︎ってなるんだろうか。あー不良になりたい。

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海の向こうの友達

スカイプレッスンが好評である。自分のウェブショップの中にチラッと忍ばせておいただけなのだが、勉強熱心な方が反応するようである。こういう形で海外の人と交流出来るのは面白い。

最近ではイギリス人の子が特に熱心だ。なんとフルヤギター購入まで考え始めているそうだ。自分の色をつけ過ぎてもいけないので他のギタリストの曲やギターも良く取り上げるのだが、やはり接触回数の多いものの影響を人は受けるのである。教えを垂れるものはその影響力に対して自覚的でなければならない。ともあれ、自分が美しいと思うものに共感してくれる人がいるのは嬉しいことである。

スカイプレッスンは便利だが、とはいえ実際に向き合ってやるレッスンに比べたら得られるものは少ない。そこは割り切って、スカイプならではのカリキュラムにしている。やはり直に触れて教える方が伸びは早いが、近くで良い先生が見つからないという人にはおすすめである。

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センター試験徒然

数々のドラマを生んできたセンター試験が終わった。国立志望の学生にとってあれほど鬼畜な試験はない。5教科7科目という広範囲の中で1点の凌ぎを削るというのは本当に大変な作業である。

甲子園や駅伝やオリンピックもめでたいことかもしれないが、僕に言わせればセンター試験ほどドラマチックなものはない。詰め込み式の勉強が批判される昨今であるが、そんな中でも受験はやってくる。こんなもので人生は決まらないが、こんなものが大きく若者にプレッシャーを与え、その中でベストを尽くそうとする姿勢は最高に美しい。そう、勉強する人は美しいのである。

受験生を見ると、自分もコイツらに負けないように精進せねばと思う。受験の時が一番勉強してました、という人生はダサいのである。勉強は現在進行形でなければならない。今日より明日を美しくするために、今日も精一杯勉強せねばならない。それは苦痛ではなく、人の持つ時間という財産を限りなく濃くしてくれる妙薬なのである。

受験生よ、お疲れ様。これからは誰も君たちに勉強しろとは言ってくれないよ。だから決して燃え尽きてはいけない。知的な炎を大きく燃やすのはむしろこれからなのだ。YouTubeの動画を見て勉強したつもりになってはいけない。むしろ動画をアップする側になりなさい。ブログは書く側になりなさい。作品は作る側になりなさい。そうすれば幾多の人が君に批判を与え、それが君を何倍も成長させる。

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ドルビーなんちゃら

スターウォーズが好きである。中1の時にエピソード1を観に行って以来、あのチャンバラの虜である。思えばあれから21年の歳月が経っている…。テレビとかで「往年のファンも納得の〜」というフレーズを聞くたびに「ふーん」と思っていたが、今の自分は往年のファンそのものではないか…。少年老いやすすぎる。学なりがたすぎる。

そんな飼い慣らされたファンとして、スターウォーズの本当の最終回を目撃しに行ってきた。しかもスーパーレイトショーだ。23:50から始まる。キッズたちはおうちで寝てる時間である。まさに往年のファンの鑑賞姿勢と言えよう。

レイトショーということで1500円で観れるかと思いきや、ドルビーなんちゃらという高画質高音質の上映しかなく、1900円であった。高い高いーっ。キャラメルポップコーンとコーラを携える予定だったのにその夢は打ち砕かれた。

しかし結論から言えばドルビーなんちゃら凄かった。音質も画質も素晴らしい。特にスターウォーズのような映画にはうってつけだ。宇宙空間の黒がめちゃくちゃ黒いのだ。

そして映画そのものも大変良かった。昔からの謎や伏線も色々と回収され、壮大な物語が本当に完結したという感じで往年のファン(私)も涙する内容であった。新規のファンには微妙かもしれない。脚本はチャレンジングでは無かったかもしれないが、水戸黄門にも似たスターウォーズの様式美があちらこちらに散りばめられており、往年のファン(私)にはグッとくる演出が多々あった。ご都合主義なところもあったが、そこはディズニー映画になった時点である程度仕方のないことなのかもしれない。ディズニー映画のご都合主義はそれはそれで安定感のあるものだ。チャレンジは称賛されるべきだが全てが冒険的である必要もない。

というわけでアナ雪2も観に行こうかと画策中である。レイトショーでやっているのであろうか。大きなお友達でも一人で観に行けるよう門戸を解放して欲しいものである。

(もはや観る前からストーリーが予想出来てしまうがそれも悪くない…それがディズニー映画だッ!)

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やよいとたけし

ブログの更新頻度が上がると「コイツ暇なのか?」とあらぬ疑いをかけられるが決して暇ではない。むしろ忙しい。しかしついトムソーヤの冒険を見てしまうのが困り物である。

いや足上がりすぎだろ!

ところで僕はやよい軒が大好きだ。ごはんのお代わりが自由なあれである。

いつもは最安値の生姜焼き定食を頼んでしまうんだが、たまに季節に合った新作を投入してくるのでついそちらにも目がいく。そこで出会ってしまったのがコイツ!

デデーン麻婆豆腐定食!

実はこの時から揚げ定食を食べようと入店したのだけど、麻婆豆腐定食を見つけて迷っていた。するとなんと「麻婆豆腐とから揚げ定食」があるではないか!なんでわかるのぉ私の気持ちが…

この麻婆豆腐、素晴らしく美味しいです。かなり本格的な味がします。シェフ呼びそうになったもん。ごはんお代わり自由にも関わらず、ごはんが無限に進むメニューをぶち込んでくるなんて…懐が深すぎるよやよい軒。

ちなみにオーストラリアのやよい軒はわりと高級な日本食レストランです。こっちで中華やイタリアンが高いのと同じだね。YAYOIの看板が一瞬YOSHIKIに見えてしまうカッコいい店構えである。訪豪の際は是非行かれたし。

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サラリマンはどこへゆく

サラリマン物語を知っているだろうか。1928年(昭和3年)に出版された、サラリマンの実情が赤裸々に述べられている一冊であるがこれがめちゃくちゃ面白いんである。

ちなみに明治は1868年から。当然江戸時代にはサラリーマンなんて存在しないわけで、サラリーマンというものが世の中に現れてせいぜい30〜40年くらいの時期に出版された本であるということである。

毎月決まった額の給料が振り込まれるというのは画期的であり、サラリーマンは「月給さん」として憧れの的であった、のであるが…

曰く、「もはや有名大学を出たからといって良い仕事にあり付けるという時代ではない」

「毎日満員電車に揺られて、女学生に触れないように通勤するのが辛いのである」

など、じわる発言連発。これ1928年よね?我々のおじいさんのお父さんくらいの時代の話ですよ?全く今と変わらな過ぎて面白い。

さらに、「だいたい近頃のサラリーマンはなっとらん、我々の頃は…」と続く。こういうのってマジでいつの時代もあるのね!我々のひいひいおじいちゃん世代が、ひいおじいちゃん世代に文句を言うというなんとも訳の分からない構図がそこにあるんである。一緒やろ!

サラリマン物語はもちろん現在は販売されていない。戦前の貴重な史料として国立国会図書館に保存されているのみである。が、ネット上でPDFが閲覧出来るのでそちらを参照されたし。

ちなみに僕は戦前の紙フェチである。なんかドキドキするんである。国民学校時代の通知表とかプリントとか相当興奮する。本人もまさか後世になって自分の通知表を見られてるとは思うまい。恋文でも出てきたらしめたものである。

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ズレるが勝ち

大学生の頃、どんな音楽が好きかという話になり先輩が「オシャレな曲が好き」と言っていて、マジか世の中にはそんな価値観もあるのかと一人物思いにふけった記憶がある。

僕はどっちかというと内向的でもの悲しい音楽が好きだ。例えばアイルランドの寒い季節に、老婆が一人水汲みをしている。そんなシーンに合うような音楽が好きなのである。そして当時は、皆もそういう音楽が好きなはずだと勝手に思い込んでいた。むしろ自分の方が圧倒的少数派だと気付いたのはかなり後の話である。

オシャレな曲はなかなか自分の中でヒットしない。何をもってオシャレかは人それぞれだけど、いわゆるオシャレなコード遣いというのが好きではないのである。それ使うといつもその味になるよねぇって感じがするし、耳障りは良くても、人の内面をえぐるような感情の起伏をあまり起こさない。

まあでも世の中一般にはギターの音楽=オシャレ、ピアノの音楽=オシャレ、というようなざっくりとしたイメージがあるのでこの感覚はうまく伝わらないんである。むーん。

例えば戦場のメリークリスマスは寂しさと哀しさと土臭さが同居した素晴らしい曲だと思うけれど、オシャレな曲ではない。戦場のメリークリスマスを聴きながら過ごすディナーはオシャレであるが、戦場のメリークリスマスそのものはオシャレではないというのが僕の感覚である。

ところでケルト民話集を知っているだろうか。フィオナマクラウドという人が編纂したかなり昔の民話集で、救いようのない悲しい民話がたくさん詰まっている素敵な作品である。大学生の頃、この民話集を読みながらお風呂に入るのが至福の時間であったと友達に話したらドン引きされた。どうやら昔から著しくズレた感性を持っていたようだけどもはや貫くしかあるまい。そしてそんな奴のブログを読んでいるあなたも同類である。きっとケルト民話集を探してしまうであろう。そして沼へ…

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ギターは指先に、指先は脳に

世の中で最も不思議なことと言えば、同じギターを弾いても、みんな全然音が違う…ということで異論はないと思う。

そうなんである。爪も指先の皮膚もみんな同じタンパク質で出来ているのに、そんなに変わる?ってくらいみんな音が違う。まるで指紋のようである。鑑識に送ったら分かりそうだよね。「ムムッ、このギターの音は…犯人はオカピさんアナタです」オカピ「ぐぬぬ」みたいな。

これが本当に面白くて…前に西村歩さんのギターを弾かせてもらった時に感じたんだけど、彼のサウンドはあのギターによるものが大きいと思ってたんだよね。でも、彼のギターで僕が弾いても西村サウンドにはならない。で、彼が自分のギターを弾くと…あ、これだ、この音だよね西村さんはって感じになる。うーん面白いねぇ。機材じゃないんだな。

ギタリストあるあるに、お互いのギターを弾かせ合うというのがある。「ちょっと弾かせて〜」っていうあれね。そうして他のギタリストが自分のギターを弾いてる時、まるで自分の妻が飲み屋で隣席した知らない男と笑顔で話してる時のような複雑な気持ちになるのである。ききき君、そんな表情を見せるのかい?っていう。そんな時でも大きく構える心を持つのが真のギタリストなのである。

ところで今年はもしかしたらニューギターを買うかもしれません。このフルヤギター、あまりに酷使してきたのでちょっと休ませてあげたいところです。次もフルヤギターがいいなと思ってるけど、意外とヨーロッパ系のギターもいいかもしれない。世のギターキッズ達も、いつかは良いギターを買うのだぞ。50万円以上のアコギの世界を体験しなさい。そして果てしない沼へ…

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青春は恋と革命

Yahooニュース見たけど瀬戸内寂聴さんパワーあるねぇ。「青春は恋と革命だー」だって。そのとーり!

そして、「不倫でもなんでもいいから恋をしなさい」だって。普通なら物議を呼びそうな発言でも、寂聴さんとデヴィ夫人ならなんでも許されるがな。笑

僕に近い人はよく知ってると思うけど、僕は完全なる自由恋愛主義です。みんな制限作りすぎじゃない?人間なんて動物なんだから、あまり自分を苦しめずに、好きになったら好きになったで良し。そして、興味無くなったら離れて良し。そこに変な理屈をこねる必要無し。人の恋愛に口出す必要もなし。自分の恋愛をひけらかす必要もなし。

先生と生徒でも別に良し。既婚者でも別に良し。勝手にしなさい。人は近い人を好きになるように出来てるの。

その上でですよ、大事なことはあるんです。法的にどうとか倫理的にどうとかは僕の中ではどうでもいい。大切なのは本人の美学だと思うんです。

例えばさ、女子大生からしたら社会人はカッコよく見えるに決まってんの。車持ってるし飲む場所も違うし。見えない世界を見せてくれるのかもしれないよ。でもさ、それって人生を少しだけ先取りしてるだけじゃん。冷静に考えたら、そんなに凄いことでも無くね?それでモテてもしょうがないでしょ。他に誇るとこないのかよって思ってしまう。

仕事が出来るのがかっこいいとかもね、たまたまその人はそのタイミングで、自分が活かせる仕事に恵まれたの。人生には巡り合わせってのがあって、時が来れば損な役回りをすることもあるの。そういう時に見せる底力の方がずっと、人間が見えるものだよ。

ここまで書いたけど、一体何を書いてるのだ私は。これではただのオヤジの説教ではないか。自由恋愛主義者といいながら結局人の恋愛にケチを付けてるような…まあこんなダラダラ文章もたまに書きたくなるのだよ。とりあえず最近の氷川きよしはすげーってことを伝えて末筆とする。(あれぞ人生!)

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明けましてもいつも通り進むのみ

明けましておめでとうございます!どんなお正月でしたか?

節目は大事というけれど、今の僕にとってはお正月は自分の立ち位置を冷静に眺めるイベント。飲むぞーとか、ダラダラするぞーとかはそんなに無いなぁ。それより長く楽器に触れていたいし仕事のことを考えたい。ツマラン人間?いやいや、事を為す前に半端に遊んでも仕方ないだけ。今、すごくいい感じだから止まりたくないんです。

人間は習慣の生き物だとして、一日という限られた中で習慣化出来ることなんて3〜4つくらいなんじゃないか?と思う。それを何にするか?この先3年かけて何を積み上げていくか?まずはここが大事。

そして決めたら静かに遂行する。決意表明なんて無駄です。熱い宣言は三日坊主の元。心の中に冷たい火を灯し、誰に言うでもなく淡々とやる。声がデカい人は大抵行動力がないもんです。

まずは1〜2月、ここを乗り切って気持ち良く3月を迎えたいところ。今年も頑張りましょ!

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